五歩目 「再生」される音楽 

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「再生」とはおそろしい言葉だ。
上記の動画を再生させたければ、中央にあるボタンをクリックすればいい。
すると、どのような状況にいようと変わらない曲を聴くことができる、ということになっている。
もちろん、厳密にはこれは怪しい。
もっとパソコンや携帯端末の性能や状態にも左右されることもあるし、音を出力するものが何か(スピーカー、ヘッドホンなど)によって変わるものもあるだろう。そもそも、パソコンからこちらの耳に届くまでに、いろんな要因によって、何かしらのノイズが同時に入ってきているはずなので、厳密な意味で、完全な「再生」などありえない。

しかし、少なくとも今再生されているはずの上記の曲が、場所や時間に寄って、明らかな変容をしたりすることはない。朝、動画を再生させたら、昨日の曲とは全く違うということは多分ない。保存され、記録として、いつでもどこでも引き出せるように、ある一つの形式に固定されているから、それを出力して、音楽にいつでも触れることが出来る。

このごく当たり前の事実が、しかし、最近になって異様に圧力として迫っくるように感じられることがあるのはどうしてだろう。TSUTAYAのCDコーナーを眺めていたり、溜まっていくiTunesアーカイブを整理していたりすると、不意に不安や焦りが生まれるのはどうしてだろう。

あらかじめ断っておく。パソコンやiPodで聴くのを止めて、外に出てライブを体感しようといった期待の地平に、この記事は向かわない。むしろ、圧力の所在はどこにあるかを探ることで、それに向きあう手立て、利用する方法を考えたい。まず、不安や焦りはいったい何故起こるのかを考えよう。

いつでもどこでも「再生」可能な音楽は、それがあることが知られていなければ意味がない。つまり、情報が必要だ。欲しい音楽が存在していることを知り、どのような方法で手に入るのかを知り、「再生」可能な形式にする方法を知らなければならない。その手順ではじめて、「再生」することはできるようになる。

しかし、最近感じていることは、情報と音楽が限りなくイコールに近いかたちで語られていないかという疑念だ。先ほどの手順がネットでは短縮されたものになる(これからもなり続ける)ことで、ますますそうなってくのではないかということ。

音楽は情報なのだろうかと言われると分からない。

音楽に、様々な情報が付与されて同時に発信され、知識として人に届けられるものであるとするならば、メディアとしての一面はあるだろう。

だけど、音楽から情報がそぎ落ちた時、音楽ではなくなるのかと言われると分からない。

ただ、情報=音楽という感じは、おそらく急速にアーカイブ化され、バイトと言う単位で重さに変換されて、整然と並ぶiTunesを観ているとますます大きくなる。

アーティスト、ジャンル、視聴数、アルバム名、様々な情報がタグとして、整理され、そのタグをたどることで音楽を聴いていたはずなのに、いつしかタグの方が重要であるかのように感じるとき、一体何を見失っているのだろうか。

そこから抜け落ちていくものを探るために、まずは圧力を出力している媒体の特性を知らなければならない。そこから、探っていこう。