三歩目 喫茶店は音楽を変えるのか?あるいは逆か?


先日、東京から遠く離れて青森の弘前に行ってきた。
ぶらぶらと街を歩いて弘前の街の観光名所(弘前城やレトロな雰囲気漂う図書館、由来は分からないが、お洒落な小物ショップやコーヒー販売店などが商店街にひしめき合うように並んでいた)をめぐって、最勝院五重塔近くにある小さな喫茶店に入った。
「ゆぱんき」というそのお店は、打ちっぱなしのコンクリートの壁に小窓がわずかな日光を取り入れていて、覗けば流れる小川の水と生い茂る木々をじっくりと観賞することができる。隅っこにおかれた本棚には武田百合子の「富士日記」やいしいしんじの「ぶらんこ乗り」などが置かれている以外、これといった装飾もない。時々、店の看板のモデルにもなっている黒くて太った猫が入ってきて、店の中をうろうろと所在無げにさまよったあと、窓からどこかへ遊びに行ってしまう。およそ30年前から、リニューアルされつつ今まで続いているそうだ。
 だいたい一時間くらいしかいなかったはずなのに、随分長くいたような気がする。りんごジュースを飲んで、ビスケットを少しずつかじりながら、いつもよりゆっくりとした時間の中で、考え事をしていた。

どうして、落ちつくのだろう?
ぼんやりとしていて、ふと気づいた。静かなのだ。わずかに優しい感じのBGMが流れているけれど、それ以外は音らしい音が無い。不思議な感じだった。コンクリートでよく響く店の作りのはずなのに、喧騒や物音から隔絶されている。奇妙な落ち着きがあったのだ。
 例えば、都内のドトールやスタバだとこうは行かない。絶えず出入りする客の足音や、婦人たちのおしゃべり、レジをカタカタ打つ音、それだけじゃない。演出のためにかかっている音楽がやたらと耳につく。やむを得ず持ってきたヘッドホンをつけることもしばしば。
 例えば、下北沢にあるような「イーハトーボ」みたいな喫茶店であればかまわない。大音量で良質な音楽が聴いて愉しむということができる。いい感じに良質な音楽をゆったりと聴ける場所というのは結構いろいろなところにあるし、かつてならジャズ喫茶がそうした役割を果たしていたのだろう。

何が違うんだろう?
考えてみれば、流れている曲自体は、個々の店でそれほど違っていることはない。こだわりの差はあれど、大抵、喫茶店で流れている曲はイージリスニング系、JAZZ、ボサノバというジャンルだ。流れている曲が極端に違うということはない。だとしたら、この感覚の違いは、むしろ場所の方にあるべきと考えるべきなのかもしれない。

場所について考えてみると、以前飲み会の席で、海外に留学したことのあるピアノ演奏家の方に聞いた話が思い出される。日本がどうしても西洋の弦楽器で、西洋に劣ってしまうのは、ひとえに場所の問題らしい。全国的に湿度が高く、じめじめしたこの国では、どうしても弦楽器の音がピンと張らない。対して、西洋では小さな演奏ホールでも乾いた空気の中でどこまでも音が伸びていくという。だから、日本の音楽はどちらかと言えばじめっとした音楽が向いているのだという話だった。ここまで大きな話ではないけれど、音楽が、その喫茶店の環境によって違うように響くことはあるんじゃないだろうか。そして、どこでだって同じように違うと言えるんじゃないだろうか。

どんな場所だって、同じように音楽の響き方は全然違う。
これが正しいのであればとんでもないことだ。一つとして同じ曲は同じようには響かないということになってしまう。例えば、野外にスピーカーを置いて、同じ曲をmp3で流したとしても、その時のスピーカーの位置、湿度、気温、天気、風の向きが少しでも変われば、もう一度忠実に再生するということはできない。絶えず、音は場所に影響を受けて変わり続ける。つまり一つとして同じ響きであるということはないのだ。

コンサートホールやライブハウスにどうして行くのか?

それは、その場所が音をより鮮明に、より大きく、より綺麗に聞こえるように工夫された空間であるからだ。クラシックのコンサートで使われるような会場は、実際物理的に音の響きがよくなるように設計されて作られているし、ライブハウスによっても音の響きが違って聞こえるということは必ずある。例えば、クラムボンの「3 peace 〜live at 百年蔵〜」というアルバムは博多百年蔵という酒蔵で収録されたライブアルバムであるが、ベースのミトがMCで、この酒蔵では音がどこまでも伸びていくということを語っていて、実際に聴けば、明らかに他のライブとは違う何か別の響きを実感することができる。だからこそ、同じバンドの曲を違う場所で聴いたり、愉しむということは自然にできる。

何も響きだけの問題ではないはずだ。

茶店によって、音楽の印象が違うということは、例えば、聞いている時の周りの環境がどうであるかに関係するだろう。店のデザイン、匂い、机や椅子の質感など諸々の環境の影響だってあるだろう。あらゆる要因が重なりあって、その曲は、そのようにして僕らの耳に届いているのだ。

しかし、逆だってあるんじゃないか。
その曲、その音によって、場所が変質するということだってあるんじゃないか。
次回はその可能性について考えてみよう。