10歩目 少女はヘッドホンで耳を塞いで、世界の声を聴いている。(後篇)


外界からの音を遮断し、自分の求めている音だけを聴くことのできるヘッドホン。
しかし、他人がつけているのを観ると、危なかっしさや、うとましさを感じることが多い。実際、周りで何が起こっているのか気づかず、事故の原因となったり、迷惑の原因になったりすることは、かなりある。

例えば、電車の中でも、大学の構内でもいい。大きなヘッドホンを頭に被って、大音量で音楽を聴いているような人間に、温かいまなざしを向けることはできるか。
そんな人に会ってしまったら、しかめ面をして、自身もまたカバンからいそいそとヘッドホンを取り出して、漏れてくるノイズから身を守るしかない。通勤ラッシュ時の京王線では胸ポケットにiPodをしのばせて、憂鬱そうにイヤホンを装着する年配のサラリーマンの姿をよく目にすることが出来る。自分を外側から切断するためのヘッドホン。

このように、ヘッドホンを付けるとき、自分と、自分の外側とを自然と意識する。
しかし、どうして外側を意識しなくてはならないのだろう。
道を歩いていてカラスの鳴き声や車のエンジン音、往来する人たちのざわめきを聴くことと、ヘッドホンで音楽を聴くこと、二つは聴くという意味で何ら変わらない。同じ音楽でもスピーカーとヘッドホンでは、聞くという行為では同じなのに、外側を意識するのは、やはりヘッドホンである。どうやら、音の問題ではなく、ヘッドホンをつけるという行為自体に、自分と自分の外側とを意識させるものがあるのだ。

装着すれば、その音は漏れたりしない限り誰にも届かない。
他人には聴こえないようにして音楽を聴く時、音と共に流れている時間は自分だけのものだ。そのことに安心したり、自分だけがその曲を聴いていることに優越を感じたり、音楽に向き合えるような感覚を抱いたりするだろう。問題はこうした当然のことではない。ヘッドホンを付けるときに現れる切断面に問題があるのだ、
つまり、ヘッドホンは外側の音と、聴こえる音楽とを区別して一方を切断するため、こちらに自分と、自分の外側を意識させているのだということ。だから、ヘッドホンをすることで世界と遮断しているとよりは、世界と自分の切断面をヘッドホンをすることで意識できるようになっているといったほうが正しいかもしれない。

はじめから、私と私の外側は切断されている。
それを、ヘッドホンは強調しているにすぎない。
では、そんなものを頭に被っている少女は?


少女はどうしてヘッドホンをつけるのか?
前回から続く問いを考えるために、これまで述べたヘッドホンのイメージと組み合わせて考えてみる。閉鎖的で、危なかっしく、煩わしい機器を頭にかぶる。周りとは隔絶され、自分だけになった世界がある。ひどく寂しいようでもあるし、何かに抵抗しているような印象も受ける。小さな抵抗としてヘッドホンが必要な少女。そんなところに惹かれるのかもしれない。

三雲岳斗『少女ノイズ』にはそんな少女が登場する。

少女ノイズ (光文社文庫)

少女ノイズ (光文社文庫)

 彼女は化粧をしていなかった。時計や指輪などのアクセサリーも一切身につけていなかった。裸足で、制服のスカーフも外している。
 たったそれだけで、彼女は普通の女子高生とは異質な存在に変わってしまったようだった。生活感がまったく消えて、遺棄された身元不明の死体を見ているような気分になる。そしてなによりも異質だったのは、彼女が身につけているヘッドフォンだった。
 携帯プレーヤー用のコンパクトなイヤフォンではない。スタジオ録音などで使う密閉型のごついやつだ。クラブのDJでもなければ持ち歩かような巨大なヘッドフォ
 ンが、小振りな彼女の頭部をすっぽりと包み込んでいる。(P23)

殺人事件の写真を収集するのを趣味とする青年が、塾講師のアルバイトとして、一人の少女の監視を依頼されるところから物語は始まる。彼女の名前は、斉宮瞑と言い、塾の中で、死体のようにところかまわず寝転がっている。いつも、ヘッドホンをつけて、外界との接触を完全に遮断している。高校生とは思えないぞんざいな態度で青年に接する。一見、周りの人間になんの興味もなさそうな、無気力なキャラクターとして登場するのだ。

しかし、やがて気づく。それはへッドホン少女の一面に過ぎない。
前もって、そのことに気づかせる一文が、以下のようにさりげなく仕組まれている。

僕はすぐに彼女のヘッドフォンのプラグが、どこにも差し込まれていないことに気づいた。瞑は、無音のヘッドフォンを耳にあてて、こんなところに一人で倒れていたということになる。(P24)

そう、このヘッドホンは音楽を聴くためのものでない。
では、少女は何を聴いているのだ。音楽の代わりに何に耳をすましているというのか。
もう一度、コードの先を確認しよう。

ヘッドホンから延びた細いコードは、どこにも接続されることのないまま、頼りなく放り出されている。
それは時間が凍りついたような美しい光景だった。(P245)

確かに「光景」としてはヘッドホンはどこにも接続されていない。
殺人現場の「光景」に固執し、空想のカメラで彼女を被写体として観察し続ける語り手の僕からすれば、そのように映るのは当然のことかもしれない。
だけど、本当にヘッドホンのプラグの先はどこにも接続されていないのだろうか。
耳元に何も聴こえてはいないのだろうか。

読み進めていくと、斉宮瞑は青年の過去の独白をたよりにして、彼のどうしても思い出せない記憶について推理するようになる。女子高生とは思えない卓越した推理力で、青年の過去を明らかにしていき、小説はそのまま周辺で起きる数々の奇怪な事件を解いていく物語として進んでいく。話の展開はその章ごとに違うが、守られているパターンが一つある。それは普段死体のように動かない斉宮瞑は主人公の青年の話に耳を済ませてから動き出すということだ。

「黙ってないでなにか話しなさい」
だらしなく寝そべったままの姿勢で、瞑が告げた。(P78)

予備校の屋上で、寝そべったままの少女に向かって、青年が事件を説明し、それについての返答から、実際に青年がそれを確かめ真相が明らかになる。
そして、その間、ヘッドホンがはずされたという描写はない。
しかし、耳元にはたしかに青年のー彼女の呼び方ではスカベンジャーの一部だけをとった「スカ」のー声はたしかに届いている。
推理というかたちで、返答を返し、実際の事件を解決していく。
これは斉宮瞑が世界の声に耳をすましていることにならないだろうか。
私と私の外側の切断を意識させるはずのヘッドホンはむしろここでは私と私の外側を接続するものとなっている。

そのことがより一層意識されるのは、この小説の最後の三行。
ここにあえて記さないその三行によって、少女がヘッドホンをつけていた理由はきっと分かるはずだ。
そして、この物語を単なる推理小説というものでなく、一人の少女が世界とつながろうとして手を伸ばした青春小説として、または一人の青年とのかけがえのない恋愛小説として複層的に立ち上がってくるはずだ。

『少女ノイズ』では、届けられた外側の声に斉宮瞑が返答することで、世界が切断されているのでなく接続されているのだということが確認できた。
だけど、もう一度ヘッドホンというものを考えた時、果たしてそんなことはあるだろうか。
単純に世界との切断に安心し、音楽に耳をすましているに過ぎないではないか。
再び『少女ノイズ』に戻ろう。最初の章にさりげなく、まるで少女の性格の一端を描写しただけといったかたちで、このような文が書かれている。

おそらく無意識だったのだろうが、瞑は歌を口ずさんでいた。
階段の下の薄闇の中で、銀色のヘッドフォンを両手でおさえて彼女は歌う。その歌声に、僕は立ち止まって聴き惚れた。おそらく賛美歌の一節なのだろう。たいした声量ではなかったし、肺活量が追いついていない感じではあったけれど、それでも綺麗な歌声だった。(P40)

何か私の外側から聴こえてくるものを聴いた結果、無意識にでも世界に向かって発してしまう言葉。
それを歌であるとした時、この小説のもう一つの側面が見えてくる。

じっくりともう一度、聴こえてくる音に耳をすまそう。
私の外側から何が聴こえてくるだろうか。

九歩目 少女はヘッドホンで耳を塞いで、世界の声を聴いている。(前篇)


さっき、ヘッドホンが壊れた。
Rolandの8000円するもので、かれこれ一年間お世話になった。今回のが三台目だった。
どういうわけかヘッドホンというのは、経験上一年くらい経つとだいたいコードが断線して使い物にならなくなる。だいたい期限が切れていて修理も効かない。普段、通学でも家でも、ヘッドホンをつけて音楽を聴いている。忙しくない時以外は滅多に外さないから扱いも段々乱暴になる。身体といっしょだ。無意識に使えるものほど、扱いが荒くなる。だから壊れやすい。

「こんなところにホクロあったっけ?」

母親から言われて始めて気づいたのだけれど、僕の両耳には左右対称に、一つ大きなホクロがある。昔からあったかと言われると覚えが無いので、もしかしたらヘッドホンをかぶって生活していたせいで、ぷっくりとできたのかもしれない。音楽が自分を変えたか?という問いに関しては、少なくとも耳にホクロを作るくらいには変えたと言えるかもしれない。

いつからヘッドホンにこんなに惹かれるようになったのか?
考えると、Panasonicのヘッドホン RP-HTX7-Cに出会ってからだと思う。

この丸っこいフォルムに包みこむような密着感とガンガン低音が響いてくる感じが好きで、壊れるまでずっと愛用していた。これを首に下げて、街を歩く時は、ちょっとだけ得意になったのを覚えている。(ただ、大学で「あのヘッドホンをいつもつけている人」で周りの人達に覚えられたらしく、それはそれで何とも恥ずかしかったのだけど。)

「萌えるヘッドホン読本」というガイドブックがある。
中身はヘッドホンをつけた女の子の可愛らしいイラストと、そのイラストとマッチしないほどにヘッドホンの素材、機能、聞き心地などを詳細に書き付けた解説で構成されている本で、例えば、先ほどのRP-HTX7-Cについては「音ヌケやメリハリはつくのだが、ヴォーカルが細身となるのでもう少し中域成分が欲しいところ。その点、ロック・ポップスでは水を得た魚の如くタイトで迫力ある低域と、抜ける青空のような澄み渡る広域が格別に気持ちいい。」といった具合。
全くヘッドホンについての知識がなくとも、その熱さに気圧されて、(またはその横にある可愛らしいイラストに惹かれて)思わず欲しいと思ってしまうのだから、おそろしい。音楽傾向別に評価して、ヘッドホンによって聞きやすい音楽のジャンルが、表のかたちでわかりやすく載せられているので、それを参考にしながら選ぶこともできる。

この本が発表されたのが、2007年夏で、前年度にiPod約2,106.6台を出荷している。2007年時点で、日本では五割、アメリカでは8割のシェアを占めていたらしい。携帯音楽端末の弱点は、平板化して聞こえる音質の悪さにあった。それを補完し、本来の意味での音を引き立てるものとして、ヘッドホンが注目されたと考えることができる。次第にヘッドホンの流行は、デザインや音域の広さなど、差異をだしていくことで、多様化していった。現在、「ヘッドホン」関係の本は「萌える〜」だけでなく多く出版されている。「ヘッドホン少女画報」などが好例で、pixivなどの大型イラスト掲示サイトにも「ヘッドホン」で検索すれば、多くのイラストを観ることができるだろう。

しかし、どうして少女なのだろう?
ヘッドホンと少女。その一見あまり関係があるように思えない二つが組み合わさって生み出される奇妙な感情。例えば、通学中、電車からいそいそとヘッドホンを取り出して周りを遮断して音楽に聞き入る女子高生の姿に、思わず見入ってしまうときがある。彼女とヘッドホンのアンバランスさや、無機的で重量感に満ちたものが、繊細な
髪の毛を強引に引き締めている姿に何かしらの、萌えを感じるというのもある。だけど、それだけではない。その姿には何かしらのメッセージ性、物語性をこちらに喚起してくるものがある。一体、それはなんだろう。次回、その物語をある一冊の小説から導いていこうと思う。(なんと、つづく)

八歩目 ゲーム音楽はゲーム無しに標題(メイン)音楽となり得るか?


やっぱりゲーム音楽ってのはどれだけいい曲でもそのBGMをゲームプレイ中に聴かないことにはあまり深く影響を受けたりしないものなのだろうか?
ゲーム音楽はやはりゲーム無しには標題音楽とはなり得ないのだろうか?

深夜、Twitterをぼんやり眺めていると、こんなツイートがあった。

彼は、Ustream等の配信サイトでDARIUSやEinhなどのシューティングゲームをやっており、時折、視聴者にゲームのサウンドトラックを紹介していた。例えば、下記のZUNTATAなども彼の配信から聴き始めたものだ。
D
この曲はDSソフト『SPACE INVADERS EXTREME 2』に収録されている。ZUNTATAとはタイトーの音楽チームであり、アルバムは1987年以来80枚以上をリリースしている。代表作としてはDARIUSや電車でGO!など、どこかで一度は耳にしたことがあるかもしれない。

例えば、こんな指摘ができるだろう。
「ゲームのサウンドトラックなんて、熱狂的なファンが制作者に投資するような気持ちで買うものだろ?わざわざ、ゲーム中に鳴る曲をCDで買ったりする必要はないんじゃないか?そもそも、ゲームをせずに曲だけ聴いたところで何が楽しいの?」

上記の文章の「ゲーム」に、あるいは「映画」を代入してもいいし、「演劇」を入れてもいい。サウンドトラックと呼ばれるような曲が持つネガティブな面はだいたいこういう感じじゃないだろうか。つまり、サウンドトラックは作品の一つの付属品に過ぎないのだから、それ自体を取り扱ったところで価値がないのだという発想だ。

サウンドトラックは付属品なのだろうか。

一つ自分の好きなゲームを思い浮かてみよう。もちろん映像やストーリーが思い浮かぶけれど、音楽はどうだろう?例えば、自分が何かしらのことに成功して、成長したと感じた時、頭の中でドラクエのレベルアップの音や、FFの戦闘後のBGMが思い出されたりしないだろうか。そこでは、先に音楽が思い浮かんでから、「あ、この音はあのゲームだ」と想起される。一つの音楽から次第に作品の詳細が思い起こされ、あたかも今自分がそのゲームをやっているような感覚が湧き起こる。つまり、頭の中ではそのゲームの記憶は土台として音楽があり、そこから全体が湧き起こるようになっている。

ZUNTATAの現在のロゴ
たしかに、付属品としてサウンドトラックはみえる。しかし、ゲームや映画や演劇を思い出す時、音楽が真っ先に呼び起こされるような感覚。この時、音楽はコンテンツの中心に自分の中でなっていやしないだろうか。つまり、映像やストーリーと同じように、頭にそれを思い出させるだけの重要な位置を占めていると言える。

そうであるとするならば、ゲーム音楽は逆にゲームが無くとも成り立つとも言えるのではないか。なぜなら、ゲーム音楽を聴きながら、自分の中で勝手に世界観を構築して愉しむことはいくらでも可能なのだから。そして、別にゲーム音楽といったサウンドトラックでなくても、自然とどんな音楽を聴いていても、それはやっていることなのだから。もちろん、ゲームも映画も、その作品を知れば知るほど、音楽がより愛おしく、特別な意味を持つことは間違いない。だけど、音楽を聴くことで自然と映像やストーリーが構築されるのであれば、そのイメージを捨てなくても別にいい。むしろ、自分のイメージとゲームのイメージがちゃんと重なるかどうかを確かめるために、ゲームをやってもいいわけだ。その時、ゲーム音楽標題音楽に成り得るだろう。


先ほど、紹介したZUNTATAは、初期の頃から音楽にストーリー性を与えることで、あくまでサウンドトラックは付属物でなく、中心なのだと主張した。最近になって、12年ぶりにライブが行われたり、iTunesStoreにて、「GROOVE COASTER」がランキング一位になり、音楽と共に高評価されていることも、音楽をただの付属品でなく、画面と音楽を相互に影響をさせあうバランスをプレイヤー自身に作らせるようなやり方自体が上手くいったのではないかと思う。

というわけで、最近、ゲーム音楽を聴くことが増えたけど、何かオススメあったら教えてほしいなー。






 

7歩目 彼らはインターネットをやっていて、そこに音楽があったってだけのことだよ 

逆ではないだろうか。
彼らは音楽をやっててインターネットがそこにあるってだけだよ」ってタイトルのサイトを観た時、ふと思った。ニコニコ動画Ustreamを活用して、音楽活動をしているアーティストたちを紹介していて、彼らはインターネットを上手に活用することで、自分の音楽を発表することができているという趣旨に帰結されるようになっている。
だけど、少なくともこれまで出会った音楽をやっている人たちを観てて思う。インターネットをやらなかったら、多分その音楽は生まれなかったのではないかと。

山田鰆という友人がいる。

始めてTwitterをきっかけに出会った彼女は、高円寺で30分ほど話した後、「眠いから」という理由ですぐに帰ってしまったような人である。その前にも雪の上を裸足で歩いて風邪をひき来れないということがあった。なんだかんだ言って、付き合いは長く、もう一年になる。

最初はおそらく、彼女の音楽を聴いたことがきっかけだったような気がする。僕がMySpaceに挙がっている曲をおもしろいと思って、褒めたら、じゃあこれ聴いて、これも聴いて、って感じでSkypeで自分の曲を送ってきた。それに対して返答を返していたら、いつの間にか自作の曲を詰め込んだCDを通販しはじめたり、コンピレーションアルバムに参加したり、ライブをやっていたり、ニコニコ動画に楽曲をあげていたりと、積極的に活動していた。

通販の決まったCDにかつてライナーノーツを書いたことがある。
とにかく、私をみて、私をみて、とこちらに迫りながらも、必死に鬼ごっこを繰り返すような、奇妙な切なさをもった音楽だ、という趣旨のことを書いた。
のちのち、本人に会ったら、よく分かったような分からないような顔をしていた。
そういう人である。

でも、よくわかることが一つあって、山田鰆というアーティストはインターネットがなければ、絶対に出会うことはなかったということ。インターネットという場所からでしか、あの音楽は届かなかったし、生まれなかった。それだけは、たしかだ。

卵か先か、鶏が先か。

これはどちらもがお互い出力し合うものであるからこそ分からないということになっているが、おそらく、卵が先か、地球が先かであれば、誰しもが地球が先だと言うように、インターネットと音楽の関係もそうだと思う。インターネットという誰でも作品を提出できる場所があるから、作品が生まれる可能性があり、そうでなければ生まれなかった、出会えなかった音楽が無数にあるのだ。

インターネットだから生まれるというのも実際は違う。
ニコニコ動画「だから」生まれた曲もあり、
2ちゃんねる「だから」生まれた曲もあり、
mf247「だから」生まれた曲もあり、
MySpace「だから」生まれた曲もある。

知らず知らずのうちに、そうしたサイトごとに特色と色があって(前に書いた「圧力」があり)、それに沿って知らず知らずにジャンルはかたちづくられていく。ニューオリンズという黒人たちが白人の捨てたトランペットを拾う場所があったからJAZZが生まれたことと似ている気がする。そこがニューオリンズではなければ全然違うものが生まれたかもしれないのだから。(そして、圧力の原因や特性をひとつひとつ考えていくことで、音楽を語るときに常に抜け落ちてしまう何かを埋められるのではないかということをこのブログは目論んでいる)

もちろん、アーティストの考えや創造性について検証することは大切であり、彼らの過去を追うことで、音楽の語り切れない何かを追うことは必要だと思う。だけど、インターネットというものを考えた時、アーティスト達が、どこだっていいと作品を発表しているのではなく、自分たちの合う場所を意識的にも、無意識的にも探していること自体に目を向けることはできないだろうか。できないのだとしたら、どうしてできないのだろう。
まだ結論は出ない。
ずっと出ないかもしれない。
でも、このよく分からないインターネットという場所で山田鰆に出会った。
こうして彼女の声がこちらに届いている。
一体どうしてそうなったのか。
それについて考えたい。

6歩目 日本語を揺らす声  POPPYという歌い手の持つ可能性

D
カラオケが苦手だ。
あの安っぽい防音空間で、他人に合わせて選曲をして、さして上手くもない歌を歌って、心のこもっていない拍手を受け取って、急かす誰かにマイクを渡し、黙って好きでもない曲を聴き続ける。そんな作業を2時間ほどやることに耐えられない。相手の顔色を伺いながら、この曲なら知ってくれているはずだと思って登録した曲をみんなが一瞬、気まずい感じで「えっ」と顔を見合わせ、歌いだすと、「何この曲?」「知らない」という顔をして、無気力に次の曲のパンフレットをパラパラめくったり、携帯電話をカチャカチャ扱ったりするという姿にどうして耐えられるだろうか!カラオケほど、そうした場の空気を合わせろと無言の要請をしてくる空間もなく、今までそんなものに合わせることのできなかった身としては、本当に行きたくない。

それだけではない。
カラオケという空間で歌っているときに感じる、ある違和感がどうしても受け入れがたいのである。
それは、普段聴いている曲と、歌っている自分の間にある決定的な差異で、別に歌唱力の巧拙ではない。
なにかが違うのだ。普段聴いている曲にあるはずの、なにか。
もちろん、歌い手が違うのであるのだから、その違い自体を愉しむという趣旨のカラオケで、それを言ってしまうことはおそらくご法度なんだろう。
だけど、こんな感覚はないだろうか。
カラオケでの曲に時々、歌わされているような感覚。
曲に強制的に引っ張られている、訓練されているような感覚。

一体何だろうか。

カラオケにおいて、誰しもが一度、試したことがあるかもしれない(いや、それほど行ったこともないので分からないけれど)得点マシーンを思い返してみる。あの得点の方法は、曲のリズムと音程を保って歌えているかというところに評価がおかれる。歌っている人の声質や、それ以外の要素は極力省かれるか、ノイズとなってしまう。なるべく曲に合わせて歌うことが、カラオケで上手いと評価される基準となっているような気がするのは、そうしたカラオケという場所の要請があるからではないか。

ふたたび、場所だ。
かつて、カラオケでラップ曲をやろうとした際にも、あらかじめ、キーが低く、かつリズムも遅く設定されているということがあった。そういった操作は、結構なされているようで、調整できるように設定されているというところも、自由に歌えるようにしているというより、何かしらの正しい答えに向かって歌わされているという感じがしないだろうか。もし、カラオケという場所が歌い方というのをある一つの忠実な答えを想定させて、歌わせているようにできているのであれば、それを肯定するにせよ、否定するにせよ、正しい答えを意識しながら歌わざるを得ない。

そのような調教された歌い方にこそ違和感の原因があるのかもしれない。繰り返すが、もちろん、歌の巧拙はある。ただ、カラオケで高い得点をとれたり、周りから評価されることとイコールではないと思うのだ。忠実になぞ
ことができるということと、歌が上手いことは、果たして分けられないものなのか。歌というものを考える時、常にそのことが思い浮かぶ。


このような疑問が生まれたのは、実はカラオケからではない。ニコニコ動画というサイトの一つのジャンルとしてある「歌ってみた」というジャンルを観ていて常々感じていた疑問なのだ。「歌ってみた」というジャンルはもはや巨大なコンテンツとなっていて、その中でも技量のある人は実際にメジャーレーベルにデビューしてアルバムを発売していたり、あるいはプロが参入してきたりと、もはや一括りにまとめられるものではない。しかし、その「歌ってみた」で聴くことのできる「歌い手」と呼ばれる人たちの歌い方に何か一律の、それこそカラオケに近い歌わされているような違和感があるような気がするのは、暴論だろうか。

「歌ってみた」で歌われる曲の多くが、ニコニコ動画で話題になっている曲であり、多くは初音ミクといったボーカロイドの曲や、アニメソング、ゲームソングである。それは、ランキングの傾向を見ていればおおよそ推察できる。そして、原曲を、歌いやすいように加工したカラオケバージョンという動画として多く見受けられるし、有名な歌い手の場合は、曲のアレンジそのものを変えるということもある。より歌いやすいように工夫して、自分の声の特質を生かせるような環境作りができると、評価することができるのもジャンルの魅力の一つであることは間違いない。ただ、歌われる「歌い手」の歌の評価軸がどうしても、カラオケの評価のそれと似通っているという感覚があるのだ。個性すらも折り込みずみで、原曲に忠実で、丁寧に「再生」されているという感覚。歌い手の曲が上手であればあるほど際立つそれは、しかし、果たして、それ故に価値があるのだろうか、分からない。

歌っているのか、歌わされているのか。

こうした問い自体が成り立つのかさえ不明である。別に歌わされているにしても、それが上手く自分に届くものであれば、かまわない。だけど、「歌ってみた」というジャンルを見た時、以上のような違和感を感じさせるが故に素直に聴くことができなかった。だから、ある時期までは「歌ってみた」というジャンルを、そうした苦手なカラオケのようなものであるとみなし、臭いものに蓋をするような感覚で長い間聴くことはなかった。

だけど、そうでない、何ら違和感なく聴ける歌い手がいた。
POPPYという歌い手だ。
20以上の動画を世に出しており、その半分くらいの曲が英語で歌われている。彼女は香港出身で現在ワシントンで生活しているらしく、英語圏の人だ。そして、彼女の動画のコメントでも、英語で日本の初音ミクの曲などが歌われることに、日本の誇りのようなものを見出して評価している人もいることが分かる。だけど、気になった点はそこではない。彼女が日本語の歌を日本語で歌うときに違和感、それもとても心地よい違和感に惹かれているのである。

一体この違和感はなんだろうと考えてよくよく聴いてみる。
すると、彼女の使う日本語にこそ、その魅力があるのだと思う。
彼女の日本語は、上手である。ちゃんと歌詞の意味もわかるし、綺麗に発音できている。だけど、その日本語に本当に僅かであるけれど、決して日本語圏の人の使わない響きがあるのだ。本当に僅かだけどずれている。

先ほどまで述べてきた答えを忠実に「再生」するように感じられる歌は、はっきりと意味を読み取れ、日本語として聞こえる。だけど、それにはある種の疑いを挟み用もない。歌を聴いていて、時々「あれ?」と引っかかる何かが削ぎ落とされている感じがするのだ。しかし、POPPYの歌う曲にはその引っかかる部分がある。そしてそれはおそらく、僅かにずれているところに原因があるのだ。日本語の本来もっていた音に、日本語のもってなかった英語をルーツにした響きが混ざる。すると、日本語の言葉自体が揺れてまるで、全く違う、言葉以前の音として聴こえる。そして、非常に心地よい。

POPPYの曲を聴くと、忠実なものから何かがはみ出していて、それでいて忠実にも聴けるという、本当に奇妙なバランスに魅力があるのだと思う。そして、もちろんPOPPYだけでなく、本当に「歌ってみた」で魅力がある人たちにも、そうした魅力はあるだろう。いや、本来、引き寄せられるような歌を歌っている人たちには、そうした何かしらのバランスからずれつつも、バランスを維持している感覚があるのだろう。それが一体どのようなもので、どうすればそうなるのかは分からない。ただ、たしかにそれはある。そして、ずっと探している。

五歩目 「再生」される音楽 

D
「再生」とはおそろしい言葉だ。
上記の動画を再生させたければ、中央にあるボタンをクリックすればいい。
すると、どのような状況にいようと変わらない曲を聴くことができる、ということになっている。
もちろん、厳密にはこれは怪しい。
もっとパソコンや携帯端末の性能や状態にも左右されることもあるし、音を出力するものが何か(スピーカー、ヘッドホンなど)によって変わるものもあるだろう。そもそも、パソコンからこちらの耳に届くまでに、いろんな要因によって、何かしらのノイズが同時に入ってきているはずなので、厳密な意味で、完全な「再生」などありえない。

しかし、少なくとも今再生されているはずの上記の曲が、場所や時間に寄って、明らかな変容をしたりすることはない。朝、動画を再生させたら、昨日の曲とは全く違うということは多分ない。保存され、記録として、いつでもどこでも引き出せるように、ある一つの形式に固定されているから、それを出力して、音楽にいつでも触れることが出来る。

このごく当たり前の事実が、しかし、最近になって異様に圧力として迫っくるように感じられることがあるのはどうしてだろう。TSUTAYAのCDコーナーを眺めていたり、溜まっていくiTunesアーカイブを整理していたりすると、不意に不安や焦りが生まれるのはどうしてだろう。

あらかじめ断っておく。パソコンやiPodで聴くのを止めて、外に出てライブを体感しようといった期待の地平に、この記事は向かわない。むしろ、圧力の所在はどこにあるかを探ることで、それに向きあう手立て、利用する方法を考えたい。まず、不安や焦りはいったい何故起こるのかを考えよう。

いつでもどこでも「再生」可能な音楽は、それがあることが知られていなければ意味がない。つまり、情報が必要だ。欲しい音楽が存在していることを知り、どのような方法で手に入るのかを知り、「再生」可能な形式にする方法を知らなければならない。その手順ではじめて、「再生」することはできるようになる。

しかし、最近感じていることは、情報と音楽が限りなくイコールに近いかたちで語られていないかという疑念だ。先ほどの手順がネットでは短縮されたものになる(これからもなり続ける)ことで、ますますそうなってくのではないかということ。

音楽は情報なのだろうかと言われると分からない。

音楽に、様々な情報が付与されて同時に発信され、知識として人に届けられるものであるとするならば、メディアとしての一面はあるだろう。

だけど、音楽から情報がそぎ落ちた時、音楽ではなくなるのかと言われると分からない。

ただ、情報=音楽という感じは、おそらく急速にアーカイブ化され、バイトと言う単位で重さに変換されて、整然と並ぶiTunesを観ているとますます大きくなる。

アーティスト、ジャンル、視聴数、アルバム名、様々な情報がタグとして、整理され、そのタグをたどることで音楽を聴いていたはずなのに、いつしかタグの方が重要であるかのように感じるとき、一体何を見失っているのだろうか。

そこから抜け落ちていくものを探るために、まずは圧力を出力している媒体の特性を知らなければならない。そこから、探っていこう。

三歩目 喫茶店は音楽を変えるのか?あるいは逆か?


先日、東京から遠く離れて青森の弘前に行ってきた。
ぶらぶらと街を歩いて弘前の街の観光名所(弘前城やレトロな雰囲気漂う図書館、由来は分からないが、お洒落な小物ショップやコーヒー販売店などが商店街にひしめき合うように並んでいた)をめぐって、最勝院五重塔近くにある小さな喫茶店に入った。
「ゆぱんき」というそのお店は、打ちっぱなしのコンクリートの壁に小窓がわずかな日光を取り入れていて、覗けば流れる小川の水と生い茂る木々をじっくりと観賞することができる。隅っこにおかれた本棚には武田百合子の「富士日記」やいしいしんじの「ぶらんこ乗り」などが置かれている以外、これといった装飾もない。時々、店の看板のモデルにもなっている黒くて太った猫が入ってきて、店の中をうろうろと所在無げにさまよったあと、窓からどこかへ遊びに行ってしまう。およそ30年前から、リニューアルされつつ今まで続いているそうだ。
 だいたい一時間くらいしかいなかったはずなのに、随分長くいたような気がする。りんごジュースを飲んで、ビスケットを少しずつかじりながら、いつもよりゆっくりとした時間の中で、考え事をしていた。

どうして、落ちつくのだろう?
ぼんやりとしていて、ふと気づいた。静かなのだ。わずかに優しい感じのBGMが流れているけれど、それ以外は音らしい音が無い。不思議な感じだった。コンクリートでよく響く店の作りのはずなのに、喧騒や物音から隔絶されている。奇妙な落ち着きがあったのだ。
 例えば、都内のドトールやスタバだとこうは行かない。絶えず出入りする客の足音や、婦人たちのおしゃべり、レジをカタカタ打つ音、それだけじゃない。演出のためにかかっている音楽がやたらと耳につく。やむを得ず持ってきたヘッドホンをつけることもしばしば。
 例えば、下北沢にあるような「イーハトーボ」みたいな喫茶店であればかまわない。大音量で良質な音楽が聴いて愉しむということができる。いい感じに良質な音楽をゆったりと聴ける場所というのは結構いろいろなところにあるし、かつてならジャズ喫茶がそうした役割を果たしていたのだろう。

何が違うんだろう?
考えてみれば、流れている曲自体は、個々の店でそれほど違っていることはない。こだわりの差はあれど、大抵、喫茶店で流れている曲はイージリスニング系、JAZZ、ボサノバというジャンルだ。流れている曲が極端に違うということはない。だとしたら、この感覚の違いは、むしろ場所の方にあるべきと考えるべきなのかもしれない。

場所について考えてみると、以前飲み会の席で、海外に留学したことのあるピアノ演奏家の方に聞いた話が思い出される。日本がどうしても西洋の弦楽器で、西洋に劣ってしまうのは、ひとえに場所の問題らしい。全国的に湿度が高く、じめじめしたこの国では、どうしても弦楽器の音がピンと張らない。対して、西洋では小さな演奏ホールでも乾いた空気の中でどこまでも音が伸びていくという。だから、日本の音楽はどちらかと言えばじめっとした音楽が向いているのだという話だった。ここまで大きな話ではないけれど、音楽が、その喫茶店の環境によって違うように響くことはあるんじゃないだろうか。そして、どこでだって同じように違うと言えるんじゃないだろうか。

どんな場所だって、同じように音楽の響き方は全然違う。
これが正しいのであればとんでもないことだ。一つとして同じ曲は同じようには響かないということになってしまう。例えば、野外にスピーカーを置いて、同じ曲をmp3で流したとしても、その時のスピーカーの位置、湿度、気温、天気、風の向きが少しでも変われば、もう一度忠実に再生するということはできない。絶えず、音は場所に影響を受けて変わり続ける。つまり一つとして同じ響きであるということはないのだ。

コンサートホールやライブハウスにどうして行くのか?

それは、その場所が音をより鮮明に、より大きく、より綺麗に聞こえるように工夫された空間であるからだ。クラシックのコンサートで使われるような会場は、実際物理的に音の響きがよくなるように設計されて作られているし、ライブハウスによっても音の響きが違って聞こえるということは必ずある。例えば、クラムボンの「3 peace 〜live at 百年蔵〜」というアルバムは博多百年蔵という酒蔵で収録されたライブアルバムであるが、ベースのミトがMCで、この酒蔵では音がどこまでも伸びていくということを語っていて、実際に聴けば、明らかに他のライブとは違う何か別の響きを実感することができる。だからこそ、同じバンドの曲を違う場所で聴いたり、愉しむということは自然にできる。

何も響きだけの問題ではないはずだ。

茶店によって、音楽の印象が違うということは、例えば、聞いている時の周りの環境がどうであるかに関係するだろう。店のデザイン、匂い、机や椅子の質感など諸々の環境の影響だってあるだろう。あらゆる要因が重なりあって、その曲は、そのようにして僕らの耳に届いているのだ。

しかし、逆だってあるんじゃないか。
その曲、その音によって、場所が変質するということだってあるんじゃないか。
次回はその可能性について考えてみよう。