四歩目 あの日聴いたあの曲はあの場所に何をしたのか?


例えば、個人的な経験。
高校の帰り道、カバンからイヤホンを取り出して耳につけ、一番うしろの座席で一人うずくまるようにして座り、音楽を聴きながら窓の向こうに見えるラブホテル街をみつめる。すると、入り口で何度も出入りを繰り返すカップルがいて、女性のほうが男に何かを怒鳴っているように見える。その横を小学生たちがリコーダーを片手にチャンバラごっこをしながら通りすぎる。夕日がホテルの窓に反射して眩しくて思わず目を伏せる。すると、もうカップルも小学生も通り過ぎて見えなくなっている。

どこかで見たような風景だなと思う。

だけど、どこで見たのかは覚えていない。そのままバス停に到着する。そうして、それ自体が思い出となる。

一体あれは何だったのだろう。
デジャブーと言う言葉がある。出会ったことのない風景に以前出会ったような感覚。
当然、バスの行き帰りに何度も通ったのだから、そのような光景に何度も出くわしていたのかもしれないし、何かのテレビ番組や映画なんかでそんな光景を目にしただけかもしれない。
しかし、あの時の懐かしいという感情を考えると、何かしらの要因があったのではないか。映像でないとしたら、なんだろう。何か直接、見たことのない映像を偽造してしまうような要因。ふと、あの時のイヤホンを思い出す。流れていた曲は何だったろう。たしか、買ったばかりのソニーのMDウォークマンで、東京事変ゆらゆら帝国のMDがバックには入っていたはず。

あ、そうか。NUMBER GIRLのサードアルバムだ。耳元で流れていた曲はMANGA Sickで、大音量にして向井秀徳の叫び声を聴いていたんだ。

出来すぎているな、と思う。

歌詞の内容がその風景とぴったり重なり合うようにできているのだ。
あたかも、風景が、音楽によって偽造されているようにさえ感じる。
いや、本当にそうなのかもしれない。
前回、場所が音楽を変えるといった話をした。
しかし、音楽が場所を変えるということだってあるんじゃないだろうか。

日本にはたくさんの野外夏フェスがある。
フジロック荒吐ロックフェスティバル、ライジングサンロックフェス、WIRE、ROCK IN JAPANFES、横浜レゲエ祭etc・・・。どうして野外でなければならないのだろう。もちろん、多くのアーティストを一斉に集めることができるという利点はあるけれど、そこに集まることで感じられる音楽があるから行くのではないだろうか。音の響き、森林に囲まれた風景、新鮮な空気、肌で感じながら曲を聴ける環境だからこそ、夏フェスは多くの人にとって特別の思い出となる。しかし、もし、そこで生まれた音楽が、夏フェスの場所を特別なものとして変容させているとしたら、どうだろう。

文学用語で「異化」という言葉がある。
ロシア・フォルマリズムという文学の運動から生じたもので、内容そのものではなく、文章の書かれ方、叙述のされ方に目を向けるために使われる。間違いを恐れずに言えば、日常言語の中で使われない言葉や、普段耳慣れない言葉を聞くと、思わず戸惑ったり、驚いたりする。その時、普段の日常は揺さぶりをかけられ、その耳慣れない言葉で指示されたなにものかを目の当たりにすることになる。その時、世界の見え方が、ガラリと変わっていたり、普段の日常では発見できなかった何者かを発見したりという体験が起こる。こうした、日常を言葉によって揺さぶり、全く違う世界を見せる効果のことを「異化」という。
この「異化」は何も言葉だけでなく、音楽でも起こるんじゃないだろうか。
例えば、普段の風景が音楽によって、ガラリと変わってしまうということが。

音楽を聴く時に不思議な感覚になることがある。
「ここ」にいながらにして、「ここ」ではなく、別のどこかへと飛んでいるような感覚。
この感覚が個人的なものなのか、多くの人も感じたことがある感覚なのかは分からない。
しかし、音楽がこちらの見ている風景に介入し、何かしら別のものを現出させているのだとしたら、風景に見覚えのあるような感覚も懐かしさも、ちょうど音楽によって生み出された作用だと納得できる。

ますます、おそろしいことだ。
もし、今までの推論が当たっているとすれば、場所と音楽は相互に作用しながら聴こえているということになってしまう。すると、場所によって音楽は全く違うものとしてその瞬間に響くだけでなく、風景もそれが見えている瞬間、瞬間でガラリと変わっているということになる。
一度として同じ音楽というのはなく、一度として同じ風景はない。

しかし、こんなごく当たり前の感覚を、さも当たり前のように感じさせないようにさせているのはなんだろうか。
もう一度、「再生」ということを考えよう。
何度も何度も同じ音楽はリピート可能というような感覚は一体どうして生まれているんだろう。
今度は、もう一度、ネットという場所に戻ることにしよう。

ニ歩目 音楽はどこで生まれているか。 移動距離ゼロの長い前置き


本当は音楽なんて聴く必要ない。

やつらはおかまいなしにあらゆる場所から聴こえてくるのだから。
TVのCMから、ラジオから、電車の中で漏れてくるヘッドホンから、竿竹屋のスピーカーから、となりのアパートから、学校の音楽室から、街行く人の唇から、あらゆるところにある。じゃあ、耳を塞げばいいじゃんって発想をしてからすぐに気づく。能動的に耳栓をしたり、静かなところにいかなければ、音楽から遠ざかることができないのだ。本であれば読まなければいい。映画なら観なければいい。絵画でなければ眺めなければいい。

ただし、音楽だけが、聴かなければいい、とはならない。嫌な音楽もそこで響いている以上は自然と耳に入ってくる。

筒井康隆の短編にこんな話があった。コマーシャルの音楽だらけになった世界が舞台の物語だ。レコードにも曲のあいまにCMがはいっており、どこへ行ってもやかましい。そんな世界で主人公はレコード屋で一番高いレコードを買う。そのレコードは何の音もせず、静かなだけだった。レコード屋の主人に問いただしたところ、静寂こそが一番高価なものなのだと告げられる。そんなお話も今ならSFとは言われないかもしれない。

一体、誰のせいだよ。思わず独りごちてみれば、そりゃ生まれているからだよな、とすぐに納得してしまう。

こうしている間にも、音楽は生まれている。ライブハウスで、スタジオで、野外フェスティバルで、駅前で、自宅で。オーケストラかもしれないし、バンドかもしれない、はたまたギター1本かもしれない。どんな場所でも、どんなかたちでも音楽は生まれ続けている。だから、あふれる。あふれてあふれて、耳は塞げない。

そんなの人類の歴史が長すぎたからだろ、と言われればそれまでかもしれない。人口が増えすぎたからだよ、との意見も至極まっとうだ。

だけど、あえて一つ付け加えるなら、音楽が生まれる環境が拡大しているからじゃないか。

環境、つまり音楽が生まれる場、生み出す側と聴く側が交差するところ、そうしたものが、今もずっと拡大し続けているのではないか。

そう、なんとも凡庸極まりない原因、インターネットの発達によって。

前田塁氏は「人間と速度」で、産業革命以降、機械の発達は、『商品(や人間)を届ける先の空間的位置(座標)を従来より「近くに」持って』くることを目的として、発達し、「近くに」持っていくために速度をより短時間にしよう、速くしようとしたことを指摘し、同じようにして、『私(たち)の思考(言語)』、『無数の私(たち)の間を移動する様態)』=『メディア』もまた速度を上げ、インターネットにより、『時間的な移動(の差異)を無化』した(し続けている)と述べている。

カギ括弧と丸括弧ばかりで、物凄く読みにくくなった(しかも乱暴な要約となってしまった)以上の話は、結局、音楽に当てはめればこういうことになる。

普段、ネット以外で音楽を能動的に聴きたい曲を聴きに行こうとするならば、TSUTAYAタワーレコードに行き、CDを買うか、借りるかするし、あるいはライブハウスやコンサートホールに向かうだろう。当然、移動しないといけない。商品を買うため、もしくはその音楽を奏でる人に会いに行くためには、家から出る必要がある。
あまり知られていないアーティストのCDであれば、より大きなCD店に行かなきゃいけないかもしれないし、地元でしか活動していないバンドであれば、彼らの地元を訪れないといけない。とにもかくにも、ネットとは違い、物理的に移動しないといけないのだ。

しかし、ネットというメディアであれば言うまでもない。例えば、今年の5月3日にフィッシュマンズ日比谷野外音楽堂のライブは自宅にいながらにして、Ustreamによって生配信され、その場にいなくても、音楽を聴くことができた。またニコニコ生放送を覗けば、常時誰かがDJ配信やギター配信をやっていたり、生放送でなくても、膨大に集積された音楽ファイルをダウンロードすることによって、物理的な移動はゼロで、手に届く距離に来るのだ。

ここまでは、手に入れる側の話だ。だけど、同様に発信する側だってだいたい同じ。

ウェブカメラを使って、パソコンの前でギターなり、ピアノなり何でもいい、とにかく配信したり、録画してアップロードしてしまえば、それは物理的な距離ゼロで、相手に届くだろう。初音ミクというネットアイドルに自分の楽曲を歌わせることによって、クリエイターの所在そのものが無いかのように隠蔽することも可能だ。

そうして、聴く側と生み出す側の距離がネットを介し、物理的な距離ゼロの空間を手に入れたことで、そこに音楽を生み出す環境が生まれた。前述のとおり、「私たちの思考」の交換、コミュニケーションの方法ですら、TwitterFacebookで移動ゼロで行えるようになってしまったことで、両者のコミュニケーションがはたらき、それをきっかけにしてバンドが生まれ、曲が生まれる土壌が出来ていったのだと、ざっくり言ってしまうこともできる。

だけど、どっかの音楽ライターとかが既に新書とかブログで書いているような、こんな指摘は前置きだけにとどめておこう。あまりにも長い前置きになったので、次回からいよいよ、具体的に、「じゃあどんな曲が生まれているのか?」「どこにそんな面白い環境があるのか?」の話をしようじゃないか。



やれやれ、どうしてこんなに長い前置きになっちまったんだ・・・。めんどくせえ!

ライナーノーツのための一歩目

音楽を語るのは難しい。

自分が好きなアーティストやバンドをおすすめしようと、思い立ち、文章で書く。たぶんあらゆる美辞麗句が思いつく。「90年代を代表するロックバンド」「魂をかき乱すギター」「人生の節目で何度も励まされた」…だけど、すぐに気づく。別にこの言葉はどのバンドやアーティストにも当てはめても不自然じゃない。別にどんなバンドだって常套句で言い表せてしまう。

おかしい。
このバンドは僕にとって特別なのに!他のバンドとはわけが違うのに!じゃあ、自分の言葉で、常套句を使わずに文章を書こう。僕にしか分からないものを言葉に移し変えよう。思い立って、空白のノートに、パソコンのディスプレイに向かう。そこで、気づく。書き出せない。自分の言葉って何だ?僕とその曲の思い出を書けばいいのか?だけど、それは僕を語っているだけで、音楽そのものを語ったことにならないじゃないか!じゃあ、自分にしか分からない言葉を作るか?しかし、それでは他人に伝わらないんじゃないか?だいたい、自分の枠で音楽を語るなんてことが出来るのか?僕は全ての音楽を知っているわけじゃない。僕の軸で文章を書いたとして、それは間違っているんじゃないか?そもそも音を文章で書きあらわせてしまうのなら、音楽なんて必要ないじゃないか?

じゃあ一体何を語ればいいんだ?

例えば、今身の回りにある音楽レビューを手にとってみる。
大まかに二つの方法があるような気になってくる。
一つは周縁を語るという手。アーティストのプロフィール、使っているギターの名称、インタビューで語られる過去や未来の夢、人物の性格や魅力など、音が奏でられていない場所で語られる情報で、音の情報を補完していく方法。音楽史によって周縁を埋めていけば、中心、音楽そのものも推し量れるだろう。そうして音楽を情報にすることで消費できる。アーティストのエピソードを知れば、誰も知らない個人情報を知れば、音楽にたどり着いたようなきがして、必死で情報を消費する。

しかし、気づく。

それは音楽についての情報を穴あきの地図に当てはめているだけで、音楽そのものを語っているわけじゃない。いつしか、周縁だけをグルグルとするだけで充足してしまうこともあるだろう。

学問として体系化していくという方法がある。
五線譜に音符を配置して、傾向を分析し、人が聴いて気持ちいいと思う統計を重ねて研究するということもできる。実際、JAZZの理論やクラシックの研究はすすめられている。これは限りなく音楽そのものに近いのかもしれない。しかし、やはり注意がいる。五線譜にした時点でそれは音楽そのものではないのだ。それは記号として姿を変えて書かれてしまった。文字は奏でない。記号やコードから音楽にしたり、その逆も可能だけど、そこには必ず変換、再現というプロセスが発生する。必ず再現できるということもなく、再現できたから正解であるわけでもない。音そのものを記号に変換しきってしまうことも不可能である。
だから、また音楽そのものを語ることからズレる。

何度も原稿用紙を黒く埋め、何度もキーボードを叩きながら、言葉が、文字が音楽に近づけないことにもがく。いっそ、とにかく聴いてくれ!と強引に迫りたくもなる。失敗し続けているのだ。失敗しながら、疑いもしだす。音楽に「そのもの」なんてあるのか?本質なんてそんなもの自分で見いだしているだけに過ぎないじゃないか。もし、それが伝わらないのであれば、言葉にすること事態無駄じゃないか?

寂しくなる。自分があの時、あの場所で聴いた音楽が嘘であるかのように思い、あの感情など誰かの受け売りだったのでは、と。では、何のために音楽を誰かに伝えなきゃいけないのか。誰に何を届けたいと思っているのか。

突き詰めていくと浮かんでくるこうした複数の問いが、答えなくただそこにある。敗北なのか。こういうことを考えること事態が失格なのか。

だけど、問いがある以上、無視はできない。ここからしか、音楽は語れない。

自分が感じたものを自分の言葉で書くのは難しい。
語る対象が、文字であれば引用することで、その雰囲気を再現することもある可能だ。しかし、音楽という文字とは違う何かである「それ」を語るには、言葉での再現では限度がある。

では、こんな戦略はどうだろう?
「それ」が伝わらないなら相手に「それ」を気づかせるのだ。

言葉で出来ること。
その言葉の最大限の幅を活用しながら、相手に「それ」を知りたいという欲望を誘発する。伝わらない何かが「それ」にあると思わせる、もどかしさも言葉にしてしまう。そして、いっしょに引きずりこんでやる。言葉の、嘘の、フィクションの力を使い、文字からは鳴り響かないそれを想像させ、意味の幅を拡げる。その時、上記に述べた二つの手法も活き活きと立ち現れてくるだろう。

これは、失敗するかもしれない戦略だ。そもそも失敗し続けているのだから、ここからしか戦えないのかもしれない。だけど、もし、相手を誘惑する中で、偶然にも言葉にできてしまう瞬間が訪れるとすれば、そして相手に伝わるとすれば。

相手に届けと祈りながら、紡いでみよう。
ここからはじめられるはずだ。